「死」について

Danse Macabre 哲学

はじめに

いまどれほどの人間が日常的に死に向き合っているだろうか
死はいつでも鎌首をもたげて我々を睨んでいるが、それに気づくものは少ない

いや、気づいているのかもしれないが、気づかないふりをしているのか、あるいはあまりにも「常なるもの」になったがゆえに感覚から追放したのか

いくら逃げたところで、死は必ず訪れる
では、その死とはいったい何者なのか

死とは - 三人称の死

死とは何かという問いを投げるならば、一番明解な回答は「生命活動の停止」である
だが、基本的に死について考える多くの人は、こういった「統計的な」答えを望んでいるわけではない
死とはより哲学的な考えのもとに定義されるべきなのだ
ここでは三人称の死を取り扱うわけではなく、他でもない一人称の死を取り扱う

一人称の死とは、つまり自分自身の死であることを念頭において欲しい

人は自分が死ぬまでに多くの死を経験するが、これは当然主観的な死ではなく客観的な死である
死は自らの身に起こるまで全く未知のものであると言える
いや、「全く」という言葉には多分に誤解が含まれるかもしれない、少なくとも「死の直接的な理解」はできない

他者の死によって我々は間接的に死を知ることができる
だが、間接的に知ることのできる死の情報量は微々たるものだ
下にそれを提示しよう

1.死はその個体と人格の永遠の喪失である
2.多くの場合、死は他者からの感情の爆発を伴うが、それは一時的なものである
3.死は、世界に一切の影響を与えない

あえて説明するほどのことがあるとは思えないが、一つ目から順番に見ていこうと思う

1.死はその個体と人格の永遠の喪失である

死は、死の主体の肉体的な喪失と精神的な喪失を伴う
(冷凍保存などの特殊な例は置いておいて)基本的に有機物である以上はいかなるものも生命活動を停止すれば、いずれは風化していく
だが、この物理的な喪失は死の本質ではない
人格の喪失とはつまり精神の喪失である、ここで注記しておきたいことはあくまで「外から観測したものに対する」死の情報であること
外界に対して死の主体の精神は永遠に失われる

2.多くの場合、死は他者からの感情の爆発を伴うが、それは一時的なものである

死の瞬間は多くの家族や友人が嘆くだろうし、あるいはあとを追いたいと思う者もあるかもしれない
しかし、これらの感情は基本的には一時的なもので、ある人物の死の後で、自分が死ぬまで悲しみ続ける人などいないということは、普通に生活していれば明らかだろう(もちろん例外はあるだろうから「多くの場合」と頭に入れたわけだが)

3.死は、世界に一切の影響を与えない

これはイェール大学で哲学教授をしておられるシェリー・ケーガン氏の考え方にもあるように、たとえ誰が死のうとも世界は昨日までと変わらぬように回り、時は一刻の狂いもなく刻み続ける
数人に涙と悲しみを与えるくらいで、世界の在り方そのものには一切の影響を与えない

三人称の死から得られる死の考察はおそらくこんなところだと思う

死とは - 一人称の死

では、一人称の死はどうか

まず三人称の死から得られた考察をもとに考えてみよう

1.死はその個体と人格の永遠の喪失である

量子論的に言うならばシュレーディンガーの猫のような話ではあるが、観測不可能である以上、可能性としては2通り存在する

すなわち、喪失するか、喪失しないかだ

2.多くの場合、死は他者からの感情の爆発を伴うが、それは一時的なものである

これについても一人称の死においては観測不可能な事象である
そして3番に絡む内容でもあるが、一人称の死のあとの世界については一考の余地が残されている

3.死は、世界に一切の影響を与えない

これが一人称の死において最も重要なファクターとなる
一人称の死の後も、そのまま世界が存続すると考えるのはいささか早計に過ぎる

如何せん観測者がいないのだから、世界の存続についても確実なものとは言えない
「邯鄲の夢」という故事をご存じだろうか

知らない人のためにWikipediaからあらすじを引用しておこう

趙の時代に「盧生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。盧生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を盧生に授ける。そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮上がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。

Wikipedia – 邯鄲の枕 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95)

ここで盧生という若者は短時間で人生の栄枯盛衰を体験することになるが、ここでこの盧生が夢の中で一度「死んでいる」ということに着目してほしい

盧生は夢の中に一つの世界を見ていたが、彼が夢の中で死んで目覚めることによって、その世界はどうなったのだろうか
当然、盧生の夢なのだから「消えた」に違いない

この話では盧生という若者が世界を創造し、そして消滅させていると言える

では、これを現実の一人称の死で考えてみたときはどうだろうか
果たして自らの死の後も世界は回り続けるといえるか、時は刻み続けると言えるか

答えは否である

一人称の死が起こったまさにその瞬間、この世界が消えうせるということは大いにあり得る話である
自己の観測が不可能なのだから、いっそう死後は世界それ自体が消滅すると考えたほうがむしろ合理的でさえある
そう考えた場合、一人称の死とは以下のようなものになるのではないかという考察が得られる

1.万物の消滅である

上記の考察をもとに、三人称の死における考察1を考えてみると、万物とはつまりこの全世界と自分自身を含むすべての消滅といえるのではないだろうか

観測不可能であるといっても、生前と変わらぬまま世界に存在するというのは考えずらい
ならば「死」というものに一切の意味がなくなってしまうからだ、観測可能な世界の法則の中で、存在理由のない現象が存在することは考えにくい
これは哲学とは違う分野の自然科学の諸理論が証明してくれているだろう

終わりに

ここまで、実にそれらしいことを書いては見たが、正直穴だらけで自己矛盾もかなり多くみられる
だが、少なくとも考え方の大枠は間違っていないと考えており、フェルマーの言葉を借りれば「余白があまりにも狭く、照明が書ききれない」といったところだろうか

いや、これこそまさに逃避であって、ここに示した考え方が正しいことを今後は証明していきたい

そして、消滅のあとについても、一考の余地があると考えている
世界が意味のないことを嫌うのであれば、「創って壊す」などまさに意味がない行為である

そこに何らかの必然性を見いだせれば、この考え方を補強する良い材料になるのではないだろうか

コメント

  1. Johann Wolfgang von Goethe より:

    照明ピカピカですよ