個人と社会について

政治

記事のひとつ目にしてはなかなかどうして、大衆受けしないであろう内容だと思いつつも、最初だからこそこの記事を書いていきたいと思います。

さてさて、この日本という国において、いえ言い方を変えましょう。
この日本という国の社会において、個人という考え方が非常に希薄なものとなってきている、ということにお気づきでしょうか。
日本は江戸時代に徳川幕府による鎖国を経験しています。この小さい島国の閉鎖的な空間の中で江戸幕府の名のもとに政治を行っていた時代ですね。
ここから日本は明治維新、第一次世界大戦、第二次世界大戦とご存知のように歴史をたどってきたわけです。

その流れの中で日本は近代思想を積極的に取り入れ、先の大戦が終結した後は立憲君主制の名のもとで世界でも随一の文明国となっていきます。
しかし、僕の考えではそれはあくまで外面だけの話し。魚を強力な炎で焼けば短時間で表面がいい具合に焦げますが、中身はまだ生です。僕は日本はその急激に熱した魚のような状態だと考えています。
それも対外的には文明国で通っている(まあもっとも日本人がそう思っているだけで、外国にどう思われているかは知りませんが)と思っているので、自らの孕む外面と内面の矛盾に気づかない。

では矛盾とは何か、という話をしましょう。
国家が近代的だといえる条件は何だと考えますか?
民主主義?男女平等?公共教育?
どれも当たらずとも遠からずですね。どういった場合でも最終的に近代国家が目指すべき場所は、個人が尊重される社会を創出することです。
個人が尊重されるということは、個人が集団に左右されずに公共の利益に反しない程度の自由な行動が許容される、ということです。
もうお気づきでしょう。今の日本は個人が尊重される状態にあるといえるでしょうか。
多少哲学や思想を学んだことがあるなら、まあ大部分が言えないと答えるでしょう。
だからこそ、近代国家としての矛盾を抱えるわけです。

余談ですが、思想なんて知らねえよと思ったそこのあなた。国の在り方を語るうえで思想は欠かせないものです。
私からすればはっきり言って大多数の国民が思想を理解していないのに何が民主主義だよ、選挙だよと思います。こんな状態でホントに実力のある政治家が選ばれるわけがありません。甘い言葉でそれっぽいことをいうやつが当選するんです。
もっとみなさんが政治に関心をもって思想を理解しようとするならば、私だってこんな嫌みったらしい記事は書かなくて済むわけです。きっとそうなれば社会は変わっているだろうから。
とまあいろいろ毒つきましたが、なにかの縁だと思ってひとつでもいいので思想を学んでください。
そうは言ってもとっかかりは難しいと思うので僕の尊敬する思想家を一人紹介しておきましょう。
前段で「矛盾」という言葉を使いましたが、この言葉はどこからの出典か知っていますか。
まあ普通は知ってるんですけどね、知らなかった人は危機感持ちましょう。
諸子百家のひとつ、法家の思想家である韓非が著した『韓非子』という本が出典です。
なにを隠そう私はこの韓非の思想をかなり重要視しています。政治とはまさに彼の言うようにあるべきだと思っているわけです。
彼の思想は信賞必罰を基本とする政治体制を敷くというもの。有名どころでは秦の始皇帝はこの書物にひどく感銘を受けたという話もあり、三国志に登場する曹操もまた法家思想を重んじて国を運営したといいます。
これに似たようなことを西洋ではマキャヴェッリが『君主論』のなかで述べていますね。
ぜひ、抄訳ではなく完訳で『韓非子』を読んでみてください。抄訳なんてどの思想書哲学書にも言えることですがクソの役にも立ちません。あんなもの買うだけ金の無駄ですし、偏った思想を植え付けられるだけです。
このブログは別にどこかのガイドラインを準拠しなきゃいけない場所で運営しているわけではないのでよくないものは徹底的にたたいていこうと思いますが、角川が出しているビギナーズクラシックスはまったくよくありません。抄訳のなかでも最低レベル。まあビギナー向けを謳ってるので仕方ないかもしれませんが、それにしてもあれはないよねって感じがします。
岩波文庫の完訳を買ってください。抄訳なんて買うくらいなら読まなくていいです。
そもそも抄訳なんてものを買うから抄訳が流行ってクオリティの低い抄訳本が無駄に量産されるんです。
どうしても抄訳読みたいなら古本屋で買ってください。

閑話休題、いろいろとごちゃごちゃ小難しいことを言いましたが日本という社会を見ていて、みなさんが単純に個人が尊重されている!と思うでしょうか。
もし思うのであれば、悪いことは言いませんのでもっと危機感を持ってください。
個人の尊重という命題はここ数百年主に西洋を中心に偉大なる先人たちが論じてきました。
そして僕たちはその偉大なる思想のもとで尊厳を享受する権利を持っているわけです。
せっかく持っていた権利ならば、使わない手はないでしょう。否、使わないという選択をするならまだいい、しかし、その選択すらできない状況にあるのが現代日本の社会だと、僕はそう言いたいわけです。
こういうことを言うと「なにをバカな」と思われるわけですが、しかし実際どうでしょうかね。

日本人という民族はやたらと周囲を気にします。それ自体は悪いことではありませんが、何事も行き過ぎると毒になる。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というやつです。日本人のこの傾向は異常ともいえるでしょう。
自分が周りから外れないように振る舞う分にはもちろん問題ありません。そんなのは個人の自由です。しかし、そうであるならば「外れた振る舞いをする」ことも個人の自由だと普通は考えるわけです。
日本人は共同体というものを大事にしすぎるあまり、他者の権利を冒涜するレベルの「協調性」を求めるわけです。
僕から言わせれば狂気以外の何物でもない。
真偽は定かではありませんが、こういった傾向は江戸時代の五人組、先の大戦での隣組、数十年前まで存在した村八分など、そのような悪しき制度の名残ではないかと思わざるをえません。

鎖国を行っていた江戸時代に、もともと島国で閉鎖的だった日本は、さらに閉鎖的な国へと変貌していくわけです。
その中で培われてきた、まるでパノプティコンのような社会システムは西暦2020年になろうとしている現在まで生きながらえているわけです。
制度として生きていなくても、文化として残っているわけですね。

個人的には元号も天皇制も否定派なのでこんな言葉使いたくはないですが、新たな時代が幕を開けて一月が経とうとしているいま、このときこそ古くからの悪しき風習を断ち切り、真の意味での「文明国家」としての歩みを始めていくときではないのでしょうか。
そう思わずにはいられません。

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